
日記
diary
10月11日月曜
Eleventh of October,Monday
偏見と事実のあいだ
外国を旅行していると、日本人に対する様々な偏見に出くわす。
それは時に東洋人に対しての偏見であったり、異教徒への偏見であったり
新参者に対しての偏見だったりもする。
それはまた好意的な偏見だったり、悪意のあるものだったりする。
普通、「偏見」といえば悪い意味に使うが
事実に根差していない、という点ではどちらも一緒だと思う。
ぼくは社会学やその周辺の勉強をしてきた。
僕の頭の中には、人間にかんして社会学者が長年集めた
さまざまなデータが集約された形で詰め込まれているといって良いだろう。
はたして、僕が学んできたことと偏見のあいだに違いはあるんだろうか?
結論から言って「ない」。
たとえば統計的にアメリカでは黒人のほうが白人より貧しい。
犯罪率も高い。
カリフォルニアやマサチューセッツはリベラルな土地だ。
大学進学率も他より高い。
これを理由に中西部からきた黒人を話もせず
冷たくあしらうのは社会学的知識に基づいているが、偏見だ。
かれが賢くてリベラルで金持ちの可能性だって常にある。
(これらのファクターをぼくは個人的に好むので。皆それぞれあるよね)
だから偏見を克服するのは常に「可能性」への執着のみだと、ぼくは感じる。
確立された学問知識も常にひっくり返される可能性がある。
いまある知識以上に洗練されたものを僕らはしらないから、
それに依存し頼るけれど、忘れてはならないのは「可能性」だ。
世界中でみられる偏見のひとつに学歴がある。
それはたしかに一つの有力な目安だ。
けれど目安は目安に過ぎない。
「学歴」の意味を正確に言い換えるなら、
「その(特定の)学校の入学テストをパスする能力
−それは学力かもしれないしコネかもしれないし帰国子女かもしれない−
を持っていた」ということしか意味しない。しかも過去ね。
別にそれは、高い学歴をもたないひとがそれを取る能力がないということではない。
社員の採用に学歴を使うのは、確かに効率的で有力な手段だ。
でも、それはヨーヨーがめちゃくちゃうまい、ヨーヨー検定一級とかと
本質的に得られる情報の質は変らない。
偏見と知識というのは常にコインの両面のような関係にある。
なにか知識を身につけると、今度は逆にそれを使ってひとを判断するようになる。
さらにその知識が現実によりフィットしているものほど、
そのほかの「可能性」を忘れさせてしまう。
ぼくは以前の日記で井の頭線の明大前から吉祥寺の雰囲気について書いた。
この区間は他の路線より短いためにイメージがしやすい。
そしてそれはおおむね妥当だ。
現実と言葉の間に乖離が少ない。
だから、久我山に住んでいます、というとみんなに
「良いところに住んでいますね」と言われる訳だ。
でも、ぼくのようにろくでなしライフを送っている人もたくさんいる。
良いところの子供として久我山の子を扱うのは、それもまた偏見だろう。
ただし、よい偏見の場合、それをみんな逆手にとって
印象操作をしようとするのであまり明るみに出ることはないのだが。
偏見はなくならない。そしてどこにでもある。
社会学は常に新しい偏見を作っているだけの学問、とさえいえる。
僕らが出来るのは、次から次へと新しい偏見を
作っては壊し、作っては壊しするだけだ。
そしてそれは言葉の本質的な機能とその限界でもあり。
最終的にその知識を良い方向に使えるかは、
個人それぞれの感受性と倫理に拠らざるを得ない。
そして個人の倫理的高潔さはいつも集団の暴力に屈するのだが
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